小室哲哉のことを考えていたらなぜだか泣きたくなった
きっかけになった報道には興味がなく、それほど彼の音楽が好きだったわけでもなく。
けれど引退と聞くと色々と彼の曲にまつわる思い出がよみがえってきた。
それくらい時代と共に駆けていた人だっのだなと。
一番古い思い出は、高校の頃に付き合っていた彼女が「Get Wild」が大好きだったこと。
そこから始まって20代の頃、彼の音楽は常にぼくの周りに鳴り響いていた。
報道があってから、小室さんが関わっていた曲をいくつかYou Tubeで聴いてみた。
その中に華原朋美さんに「I'm proud」のMVがあった。
この曲も御多分に洩れず、当時それほど聴き込んでいたわけではない。
ただ、ヒットした曲なのと彼女の伸びのある高音のボイスは耳に残ってはいた。
サビのメロディーぐらいはぼんやりと覚えていた。
そして何度か繰り返して聴くうちに涙が止まらなくなってきた。
なんでだろう。
改めて聞いて、いい曲だなとは感じた。
特に歌詞は、今聞くとかなり印象深く感じられた。
華原さんのwikiには、デビュー前後の二人の関係について小室さんが語った言葉として、
「アーティストに手をつけたのではなく、プライベートの恋人に曲を書いてデビューさせただけです」と書かれている。
元々は遠峯ありさというそれほど有名ではないアイドルでしかなかった彼女は、二十歳の頃に小室さんと出会ったことでミリオンセラー歌手へと変わった。
「壊れそうで崩れそうな情熱を繋ぎ止めるなにかいつも探し続けてい」て、
「街中にいる場所なんてどこにもない」と感じていた少女が
「あなたに会えた」から「自分を誇れるようになった」
「I'm proud」の歌詞は彼女の人生そのものだった。
こんな歌詞を臆面もなく自分の彼女に歌わせる小室さんもどうかと思わなくもないけど、それでもこの歌詞は聴くひとの心を打つ。
誰からも省みられないなけなしのプライドを抱きしめて泣いたこと。
出会った誰かから特別な暖かさをもらったこと。
誰にだってそういう体験はあるだろうから。
■
小室さんが活躍したのは1980年代後半から90年代の後半。
ちょうどぼくが大学に入りそして大学を辞めてフリーランスの舞台照明家として働いていた時期だ。
たまたま最近「アパートメント」というwebマガジンでその頃の思いでを書いていた。
世の中がまだバブルの余韻に浮かれ騒いでいた時代に、ぼくは裏方として汗と埃にまみれて暮らしていた。
フリーランスではあったものの、まだまだ自分に自信が持てなくて、いつも不安な気持ちを抱えて働いていた。
1995年の夏。お台場にあったベイサイドスクエアという野外スペースで「TK DANCE CAMP」という小室ファミリーのライブイベントがあった。
小室さん本人の他に、trf、hitomi、安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S、観月ありさ、globe、篠原涼子、坂本龍一、H Jungle with tなど、綺羅星のようなアーティストたちが参加した大イベントだった。
この催しにぼくは多分、照明スタッフとして参加していた。
(多分、と書いたのはネットで調べたイベント内容とぼくの記憶に若干違いがあるから。今となってはもう調べても分からない・・)
そもそも照明スタッフはイベントの裏方なのだけど、このイベントではぼくは裏方の裏方みたいなポジションで働いていた。
初日の朝一で元請け照明会社の仲がいい若手社員に捕まり、
「田中さんは今日はライトに触らなくていいんで、ぼくと一緒に死ぬほどケーブルを引き回しましょう♡」と耳元で囁かれて、集合した30人ほどの照明スタッフとは別の場所へ。
当たり前なのだけど、野外イベントは何もない空間から設営が始まる。
照明もただ機材を設営するだけではなく、配線関係でやらなくてはならないこともとても多い。
しかもホールでの作業と違って引回す距離が圧倒的に長い。
重いケーブルを扱う力も必要だし、細かい作業を間違いなく行う正確さもいる。
そしてトラブルが起こった時に、どこの何が問題なのかを見極める対応力も必要。
その日のぼくはひたすらに各種ケーブルを引き回すチームに配属された。
30人くらいプロの照明さんがいて、500台くらいのスポットを設営したけれど、ぼくは1台も触らなかった。
各スポットに電源を供給する重たいケーブルを引き回す。
それが終わると調光ユニットの設置。
そして操作用のデジタル信号ケーブルの配線。
当時はデジタル制御の機材がで始めた頃。
大規模なイベントだったのでカラーチェンジャーやムービングスポットといった最先端の機材も多く使われていた。
今では珍しくはないのだけど、当時はまだデジタル機材を扱うことが珍しかったので、プロの照明さんでも不慣れな人が多かった。
そういう人が適当に設営すると後でトラブルになることがほとんどだったので、そういう機材のケアもその日はぼくらのチームがやっていた。
炎天下に100mほども遠くにある、陽炎に揺らめく照明用のタワーまで、ひとり延々とケーブルを引きつづけたりもした。
ステージの床下に何十本ものケーブルを縦横に張り巡らせてもいた。
夕方になってリハーサルが始まっても、トラブル対応で舞台裏を走り回っていた。
ようやく作業が一段落したので休憩しようと客席に出てみた。
夜の闇の中にステージが明るく浮かび上がっていた。
ダンス、音楽、歌。
汗と埃にまみれて作ったステージは、そんな裏で働く人のことなど知らぬげに眩しく輝いていた。
ぼくはしばし時間を忘れて、華やかなリハーサル風景に見入っていた。
ぼくの20代はいつもそんな風だった。
東京ドームや武道館、横浜アリーナ。
華やかな舞台を作りながら、自分自身は華やかさからは最も遠いところにいる、そんな気がしていた。
世の中の人が思うような青春はそこにはなかったと思う。
仕事以外でディスコやクラブに繰り出すことはなかった。
異性と派手に遊び歩いた覚えもない。
世の中はまだバブルの名残りに浮かれ騒いでいた。
ぼくはそのすぐ近くにいて、なのにとても遠くにいた。
ぼくと小室さんとの接点は舞台照明家という仕事を通したものでしかなかった。
彼の音楽にあこがれたこともなかった。
それでも久しぶりにその曲を聴いていると、不思議なくらいに感情が揺さぶられた。
それだけ彼の音楽が時代と寄り添っていたということなのか。
好き嫌いに関わらず自分の人生から完全に切り離すことはできないものなのか。
そして華やかな青春とは縁遠かったぼくにも、不思議とその頃を懐かしむ気持ちは残っていたのか。
ひたむきで、不器用で、プライドばかり高くて、何者でもなくて。
それでもエネルギーにだけは満ち溢れて、その使い道を知らなくて。
彼の音楽を聴いて、50歳を目前にして涙が止まらなくなった。
どうしてだろう。
いまの方がずっと強くて自由なのに。
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ぼくたちの前から去っていく彼女との思い出
3年くらい前だったか、ももクロ主演の「幕が上がる」という舞台の本番につかせていただきました。
楽屋の廊下に稽古場で撮ったっぽい稽古中のメンバーの白黒写真がたくさん貼ってありました。
途中参加で稽古場には行ってなかったのでよく事情が分からず周りのスタッフに聞いたところ、有安さんが撮ったと。
彼女は当時日芸の写真科に在籍していました。
そのこと自体も卒業まで特にオープンにされていませんでした。
その後、大学卒業時に情報が公開されて、ニュースでそのことを知り、ちゃんと卒業まで頑張ったんだと少し感動したことも覚えています。
いわゆる商業演劇では、打ち上げでキャストとスタッフは同じお店にはいるものの、テーブルが分かれていることがほとんどで、お話ししたりする機会はほとんどありません。
まあぼくなんかは人見知りで気が小さいので、知らない有名人のキャストさんと話すのは正直、気後れしてしまうのであまり好きではないのですが・・。
けれどももクロのみなさんは公演中からとてもおおらかで、本番前のバックヤードでスタッフと絡んだりもよくしていました。
演劇という普段とは少し違う毛色の仕事でも、おそらくいつもと同じように楽しげに振る舞えるのは正直すごいなあとも思いました。
(ももクロファンになるスタッフも続出しました)
そんな彼女たちは、打ち上げではお酒も飲んでいないのに(その頃メンバーのひとりがまだ未成年だったのでひとりだけ飲めない彼女を気遣って)それはもう元気で、何人かはスタッフのテーブルにも入ってきて一緒に話したりもしてくれました。
その時に有安さんとも同席して、どうして大学に進んだのかや写真を学んでいる理由なども聞かせていただきました。
アイドルという華やかな仕事の裏で、将来をしっかりと見据えて行動していた彼女だけに、まだ勢いのあるなか22歳での卒業という選択は、ぼくにはそれほど意外には感じられませんでした。
忙しいアイドル稼業の真っ只中でも、今いる場所のその先を見つめていた彼女ならと。
舞台照明デザインってなにするの?
最近、業界外の人に「舞台照明デザイナー」 ですと名乗ることが増えました。
なので「どういう仕事」と聞かれることも増えました。
なかなか説明しづらいんですけどね。
例えば、去年の12月に日本スタンダップコメディ協会会長、清水宏さんのトークライブの照明デザインをやらせていただきました。
出演者一人がしゃべりつづけるだけの構成なので、お芝居などと違って照明もそれほど変化させたりすることもなく、ただ出演者が明るく見えるようにしてあるだけでした。
本番を見ていると清水さんの移動範囲がぼくがイメージしていたのよりもかなり客席寄りになっていました。
普通、俳優さんやコメディアンの方は舞台の客席よりギリギリまでは使いません。
舞台は明るくて客席は暗いので足元が危ないからです。
また舞台前ギリギリだと照明の照らす角度がよくなかったり、当てられる台数が少なくなったりで少し暗くなってしまうからです。
清水さんは元々、熱量高く演じるタイプの方です。
リハーサルと比べると、舞台の踏面ギリギリまで出てきて、前のめりにお客さんと相対してしゃべります。
当然、姿勢によっては時々顔への照明が少し暗くなる瞬間が出てきます。
シーンによっては明るくなったり暗くなったりを頻繁に繰り返すことになるので、これは少し見にくいので本番が終わったら暗いエリアをフォローするライトを追加しようと考えていました。
けれどしばらく見ていて気が変わりました。
普通、そういうところには立たないのです。
そこまで前のめりにはならないのです。
だけどそこを外れてしまうのが、エリアからはみ出してしまうのが清水宏さんというアーティスト。
彼が動くエリアを全て同じような明るさにするのは技術的には簡単ですが、エリアからはみ出す清水さんのエネルギーを視覚的に表現するにはあえて暗い場所を残しておいたほうがいいんじゃないかと。
そこに違和感を感じてもらったほうが清水宏の生き様が伝わるのではないかと。
こういうのが舞台照明デザインです。
クラウドファンディングのCAMPFIREが手数料を大幅に引き下げたけど
日本におけるクラウドファンディングの草分け的存在、CAMPFIREが手数料を20%から5%に大幅に引き下げました。
また掲載プロジェクトの審査基準の見直し、目標金額に達成しなくても資金を受け取ることができる「All-In」の仕組みを採用することも同時に発表されました。
シェアしている記事の中では代表の家入さんに取材した
「もっと小さな個人の活動を支援したい」
「正直このままだとCAMPFIRE自体も、そしてクラウドファンディングという仕組みも浸透しないまま、縮小していくのではないかと個人的に危惧しています」
というコメントが紹介されています。
日本におけるクラウドファンディングという枠組みへの危機感はとても共感できるものがありますし、小さな個人へのまなざしも家入さんらしいとは思います。
一時、社会的に注目されて多くのクラウドファンディングのプラットフォームが設立されましたが、それはどちらかというとユーザーを食い合う状態なのではないかと感じていました。
現状はプラットフォームの集客力よりもプロジェクト実施者の個人的な人脈の方がお金を集めるのに有効で、社会全体から賛同者を募り、薄く広く資金を集めるというクラウドファンディングの理想からは遠い状態になっているのではと思っていました。
それぞれのクラウドファンディングのプラットフォームが独自性を出し得意分野を持つ方が、プロジェクトと出資者のマッチングにも有効だとは思います。
そういう意味では今回の決断はかなり意味のあることではと感じています。
ただ手数料の値下げによってプラットフォームからプロジェクト発案者へのサポートなどが手薄になってしまうのではという気もします。
それによって内容が精査されないまま小さなプロジェクトが乱立すると、お金を集めたまま実行しない事例も増えそうな気もするし、結構諸刃の剣的な経営判断な気はします。
ほかのプラットフォーマーも手数料勝負に乗ってしまうと、日本のクラウドファンディング自体が逆に地盤沈下してしまう危険もあるので、そうではなくてそれぞれの個性や強みをもっと発揮する方向で業界全体が盛り上がっていくといいと思います。
宮崎芸術劇場「三文オペラ」上演中止にいて
最初にこのことを知ったのはFBで友人がシェアしていたこの記事でした。
作品内容に対して著作権者との協議が不調に終わり上演ができなくなるというのはごくまれにですがあります。
上演契約を結んだ時点では作品の演出プラン自体は著作権者には提示されていないことが多いので(タイミング的にそこまで内容は決まっていない)、その後提示された演出プランに対して著作権者がNOの意思表示するというパターンです。
なので比較的上演が近づいてから公演中止になることが多いです。
ぼくが個人的に知っている例だと、もう20年ほど前に青山円形劇場で上演予定だったテネシー・ウイリアムスの「欲望という名の電車」が公演中止になったことがあります。
この作品は主人公のブランチを現代演劇の女形として活躍する篠井英介さんが演じる予定でした。
しかし実はこの作品には原作者から「女役は女優、男役は男優を必ず配役する」という指定がありそこが問題となって上演許可がおりませんでした。
ぼくの記憶だとたしか上演の一ヶ月くらい前に中止が決定したと思います。
この話には後日談があり、なんとかして篠井英介ブランチでの上演を実現したかった関係者は著作権者を訪ねて説得し、女形という日本独特の文化について説明し、また演技を見てもらい、2001年に許諾を得て上演することにこぎつけました。
最初のポストを見てからしばらくして、当日劇場を訪れた何人かの方がブログなどで情報発信しているのを見ました。
それによると2/5の公演初日、近いお客さんが普通に入場し開演直前の満席状態で中止が告げられたみたいです。
演出家やディレクターからの事情説明の後、舞台では出演俳優によるパフォーマンスが披露されたそうです。
理由はフルオーケストラによる全楽曲の演奏、脚本の改変禁止などが上演契約に盛り込まれていたということです。
開演直前まで交渉をしていたとのことですが・・やはりこの対応はちょっとどうかと思います。
この公演は宮崎だけでなく福島県のいわき市と横浜市での上演も予定されているのですがそちらの中止の情報は2/6時点ではまだでていないそうです。
SNSなどでは「フルオケじゃなくてもいいから上演して欲しかった」などの意見も散見されましたが、契約上の問題なので上演の許諾をとれなかった制作側の責任の方が大きいと思います。
詳細は以下のリンクにまとめられています。
さて今回の上演中止について、著作権に詳しい弁護士の福井健策さんはこんなツイートをしています。
作者のブレヒトもクルトヴァイルも死後60年以上経過し、戦時加算を含めてもパブリックドメイン。ラップやレゲエを取り入れたらしいので、著作者人格権を持ち出されたか?
— 福井健策 FUKUI, Kensaku (@fukuikensaku) 2016, 2月 6
RT 上演直前に中止 権利問題了承得られずhttps://t.co/gM01xY6v0D
上演権についてはこの辺りも参考になりますね。
権利関係については日本では割と軽く見られることも多いですし、海外の著作権利者とのやりとりにあたってのいい事例にもなるので、できれば公演中止までの経緯についてできる範囲で公開してもらえるとうれしいと思います。
ぼくが帆船を借り切ってイベントをやってみるまで【だんどり編】
今年の8/15に横浜で帆船を借り切ってイベントをやってみました。
「こんなことやりたいの〜」と妄想をつい口に出したら、周りの人の協力のおかげで徐々にそれが形になってきてしまいました。
ああ、もうやるしかないのね (笑)
7/16、友人の紹介で神戸にある帆船みらいへの事務所にとりあえずまとめてみた企画書を持参してうかがいました。
ちなみに2年前の秋に、わたくしこの船のインストラクター募集に応募して落っこちております。
今回の先方の担当者はその時の面接官の方でした。
向こうが覚えているのかどうかもわからないので、その話題は全く口にしませんでしたが。
事前に大まかな状況は伝えてあったせいか、話はわりとスムーズに進みました。
このイベント自体がみらいへの事業との相乗効果も期待できるということで、大変よい条件で貸してもらえることになりました。
一時は数十万を自腹でと覚悟していたのですが、その辺りの心配がなくなり、気分的にはかなり楽になりました。
また協力などで名前を掲載することの許諾もいただきましたし、告知の協力などもしていただけることに決まりました。
帰り道、ちょうど昼時だったので、近くのホテルのビュッフェで一人祝杯などあげたりして。
帰りの新幹線の中でイベントの告知内容をまとめ、自宅に帰ってからその概要をイベントに協力してくれそうなところに流し、本格的な告知サイトを作り始めました。
イベント告知はFBイベントとPeatixというイベントサポートサービスを利用しました。
FBは自分が普段の情報発信に利用していて使い勝手がよかったことと、個人的につながってる人が多いのでここを主戦場にしました。
そしてFBをやっていない人への告知と料金の事前決済に対応するためにPeatixを利用しました。
料金を当日集める形にすると当日のキャンセルが発生するのと、受付業務が煩雑になるのがイヤだったので事前決済を中心にしたいというのがあり、Peatixを使ってみました。
まあ純粋に一度試しに使ってみたかったてのもあったのですが。
また天候などで中止したり時間や内容、集合場所が変更になる可能性が高く、参加者との直接の連絡手段を確保したかったので、Googleフォームを使ってメアドなどの収集もしました。
これも初めて利用したので、フォーム作成には結構時間がかかりました。
ここまでの告知プランは事前になんとなくイメージしていたので、その日の夜には告知できる準備は出来上がりました。
しかし、その時点でぼくが、そのまま勢いで情報公開すると何かをやらかしてしまいそうな妙なテンションだったので、これは一晩寝てからの方がいいと判断しました。
翌朝、冷静になったところでもう一度リリース内容を確認してから告知をスタート。
自分のFB、Twitterの他に、自分が所属してしるいろんなFBグループなどにも情報を流してみました。
で応募状況なんですが、最初はぼちぼちという感じでした。
集客目標は20人に置いていたのですが、一週間で4,5人。
まあ動きは良くもなく悪くもなくという印象でした。
最初の募集の時点では「帆船未経験者」限定にしたのですが、どうしても人が集まらない場合は限定解除して帆船関係の知り合いを読んでブーストすることも考えてました。
それやったら20人は軽くクリアするとも思ってました。
それじゃあイベントを開催する意味はあまりないのですが・・。
告知を初めて一週間ほどして、参加者の動きやら、周りからの反応やら、アクセス解析やら見ながらイベント内容を改めて見直していて、なんとなくの違和感を感じました。
余談ですがぼくは普段の仕事でもこの「なんとなくの違和感」というのを割と大事にしてます。
そこに物事をステップアップさせる鍵だったり、危険を知らせるアラートだったりが潜んでいたりするからです。
イベント内容を改めて何度も読み返して違和感の正体を探ってみました。
そして感じたのは「ワクワクが足りないのでは」というものでした。
それと「このイベントに参加すると何ができるのかよくわからない」というのもありました。
なるほど、その辺りを調整しないと参加へのハードルが高いのでは。
じゃあどうすればいいのか・・。
ピコーン(☆_☆) そうだ、会場費下がって予算に余裕ができたんだから、ゲストを呼べばいいんじゃないか。
そこからゲスト探しの旅が始まったのです。
ぼくが帆船を借り切ってイベントをやってみるまで【でっちあげ編】
8/15に横浜で「みらいへ」という帆船の船上でイベントをを開催しました。
なんの目算もなく突然思い立った頭の中での妄想だったのですが、つい周りの人に口走ってしまったことから物事が動き出してしまいました。
その詳細は【妄想編】をごらんください。
帆船「みらいへ」のクルーの友人に貸切したい意向を伝え、事務所サイドにもろもろの確認をお願いしたのが6月21日、1泊2日の航海の船上でした。
7月に入ってすぐに彼女から連絡がきました。
そこで教えてもらった事務所側の意向はこんな感じでした。
◯日程的に1日の貸切は無理
◯夕方以降なら空いている日があるので利用は可能
◯航海しないのなら料金もかなりお安くできるかも
◯「みらいへ」の今後の事業展開にプラスになるような企画が望ましい
さあもう、この時点でやるのかならないのか、本気で決めないといけないタイミングになったわけです。
イベントのイメージ(というか妄想)としては、メインターゲットは帆船に乗ったことがない人。人数的には20~30人くらい。
停泊した船上で航海中にやるプログラムのいくつかを体験してもらうというものでした。
夕方以降なら時間帯はどこでもいいとはいうものの、明るい時間帯でないとできないプログラムもあるのでイベント開始はなるべく早い時間にしたいとは思っていました。
現実として可能なのは17時スタート。
日没の時間から考えると船上での体を動かすようなプログラムが可能なのは1時間半くらい。
それだけだとボリュームが足りない感じなので、後半に座学的なものを入れてトータルで3時間くらいで、と考えていました。
この時、みらいへの事務所からはこの内容で借りられそうな日が複数、提示されていました。
本当に貸切でイベントをやるのか、やるならどの日にやるのか。
それを決めるにあたりある友人に連絡してみました。
なんというか、こういうことを面白がってくれそうな友人にでした。
これまでの経緯とイベントの内容と日程。
そのあたりを提示した上で、来てみたい?&集客手伝ってくれない?と問いかけてみました。
ほら、一人で全部背負い込むと気分的にキツイし。
返事は、ぜひ参加したい&集客もお手伝いしますよ、というものだったのでとりあえずは参加者を一人GET。
そして彼女のスケジュールも含めて調整して開催日を決めました。
参加者も確定してしまったのでじゃあやるかということで、やりますという意思表示と希望の日程を返しました。
でその後、事務所の担当の方と直接コンタクトを取り、一度直接会って打ち合わせできればということになりました。
・・・事務所は神戸なんですがね。
でも、初めてご一緒にプロジェクト立ち上げるので直接あった方がいいとは思いましたので事務所に伺うことにしました。
最初に事務所の担当者の方とコンタクトを取ったのは7月14日だったのですが、決まった打ち合わせ日程は16日でした。
移動することは嫌いではないのですが、今回は前後のスケジュールの都合でその日の朝移動して日帰りで戻ってくることになってしまいました。
当然、行きも帰りも新幹線です。
新幹線つまんない、バスとか在来線とか北陸回りとか奈良経由とかわけのわからんルートで神戸まで行きたいといろいろ考えたのですが、今回だけはどうにもしようがない状況だったのであきらめました。
というかそもそも、まだイベントの内容とか企画意図とか妄想しかない状態だったので、それをキチンとまとめないことには打ち合わせになりません。
ということで、1日で打ち合わせの資料をでっち上げることになったのです。
ここまで妄想と欲望だけで進んできたのですが、ここで初めて自分の頭の中をまとめる作業になりました。
どういうスタンスで自分はイベントを開催するのか。
どんなお客さんに来て欲しいのか。
そして何を体験してもらい、何を持って帰ってもらいたいのか。
そもそも何のためにこのイベントをやるのか。
それによって自分がどう変わっていくのか。
そんなことを言葉にまとめる作業というのは思いの外難しい作業ではありました。
自分の漠然としたイメージを他人に伝え、なおかつ理解、賛同してもらえるにはどうすればいいのかと時間のない中でかなり悩みました。
まあ先にやっとけばよかっただけの話なんですが・・。
ということで、以下は半日ほどででっち上げた打ち合わせ資料からの抜粋です。
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【募集対象】
帆船に乗ったことがない人 20 代後半〜30 代の社会人 男女
※基本的には過去にあこがれ、海星に乗った人は対象外だが、参加者の状況によっては追 加募集する可能性有り
※ 運営スタッフとしてあこかれ、海星関係者が関わる可能性有り
【告知方法】
FB、Twitter などのソーシャルディアが中心。
普段からそういうものに親しんでいる、今社会の中心となっている30 代をメインターゲッ トとする。
主催者が関係のある社会人向けの講座を行っている、東京にしがわ大学、自由大学などの 関係者、講座の参加者をメインに告知を行う。
【企画意図】
「海図を背負った旅人」名義で帆船や海についての情報発信を一年半ほど続けてきて、今 の時点でどのくらい活動が認知されたり興味を持たれているのか確認するために企画。
また帆船に興味を持った人たちから、実際に船に乗ってみたいとの声も聞かれるため。
これまで接点のなかった人たちと帆船が出会う場を提供する。
そうしたこれまで考えらてきた船好き、海好きな人たちへのアプローチや教育的側面 の価値以外に、今の社会の中で帆船の存在価値とは何なのか、またイベントなどとリンク した利用方法を探るきっかけにもしたい。
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まあ書いているうちに自分が漠然と妄想したてのはこんな感じなのかというのも見えてきて、イベントの性格も少しははっきりしてきたかなという気もしました。
なんとなくの箔付けのためににわ大とか自由大学の名前もお借りしたりもしました。
それが役に立つのかどうかもわかりませんでしたが。
とにかく、翌朝、ぼくはこの資料を携えて新幹線で神戸に向かったのでした。