脚立の上の王様

主に脚立の上に存在します。舞台照明家のはしくれとしてエンタメ業界の底辺の端っこをちょっとだけ支えています。ふらっと海に出たり旅立ったりします。

ぼくが帆船を借り切ってイベントをやってみるまで【妄想編】

8/15に横浜で「みらいへ」という帆船を借り切ってちょっとしたイベントをやります。

peatix.com

今までにも小規模なイベントはちょこちょこやってきたのですが、これだけのサイズの箱を使ってやるのは初めてです。
巻き込んだ人や関わってもらう人も多いですし、イベントをやることで新しいつながりができたりと面白いことも多がったので、自分の備忘録も兼ねてこのイベントの企画から開催までをブログに残しておこうと考えました。

それでは第一部【妄想編】をお送りします (*´∀`*)

このイベントをやることになったそもそもは今年の一月に遡ります。
3年前の年末年始に自由大学が主催する「自分の本をつくる」という講義を受けました。
なぜ本をつくりたいのか、どういうものを書きたいのか、自分の内面を見直して自分が本当に書きたい本をみつけるという講義でした。

当時、いろんなことにチャレンジして惑い続けているなかで、かなり面白い講義でしたし自分の感覚にもフィットする部分がありました。
とはいえ、その後特に本を書こうという意欲も上がらずなにもないまま3年が過ぎていました。

今年の1月、たまたま時間があったのでその時開催されていた「自分の本をつくる」の最終講義、受講生が自分の作りたい本をプレゼンする回に聴講生として参加させていただきました。
みなさんなかなか熱のこもったプレゼンで、それを聞いているうちに自分もなにかやらないとという気にさせられてしまいました。

「自分の本をつくる」では受講生が自分の文章を発表できる場としてORDINARYというwebマガジンを運営していました。
その後しばらくして講義の教授でありORDINARYの代表でもある深井さんに会う機会があり、その場でつい「ORDINARYに毎月、帆船をテーマにしたエッセイを書かせて下さい」と言ってしまったのです。
深井さんにご快諾いただき、その後毎月一本、これまでの帆船航海の経験を普通の人が読んでも興味を引き、得るものがあるエッセイに落とし込むということを始めたのです。

 

同時期にかつての帆船仲間と「Tall Ship Challenge Nippon」というプロジェクトの立ち上げ準備を始めたこともあり、2015年はぼくの中で帆船について考える時間が圧倒的に長くなっていたのでした。

5月くらいのある日、ふと気づいたのです。
「あれ、よく考えると去年(2014年)、一回も海に出てないんじゃ・・」
そう、帆船についてあれこれ語っているくせに、自分は海に出てなかったのです。

ちょうどその頃、夏の仕事のオファーがぼちぼち来始めていました。
面白そうな仕事や経済的においしい仕事もありました。
でも心のどこかで海に出てないことがものすごく引っかかっていました。
なので8月の仕事は全部断ってみることにしました。

その時点で特に何か予定があったわけではありません。
8月には沼津の帆船Ami が毎年長期航海を計画しているので、ほかに特に予定が立たなかったらそれに乗せてもらおうとなんとなく思っていたくらいでした。
後はオランダのアムステルダムで5年に一度の世界最大級の帆船イベントが開催されるというのもありましたが、予算的には無理だなあとも思っていました。

そして6/1。
自分のFacebookに「帆船貸し切って一日航海したら乗りたい人いますか」という記事を投稿しました。
これどうしてそんなことを言い出したのか自分でも全く覚えていません。

www.facebook.com

 

その前後というのは舞台の仕事がかなり忙しい時期でした。

そしてORDINARYの記事の〆切も重なっていたはずです。
そして知人が住んでいる鹿児島県口永良部島の火山が噴火したりもしてました。
普通に考えたらそんなことを思いつくような余裕はないはずでした。
とはいえ、あくまで【ゆる募】とうたってはいますが、ここから妄想が加速していったわけです。

その投稿では本気で乗りたい人のいいね!が80越えたら貸し切ると宣言していました。
しかし実際のいいね!は60という微妙な数。
夏に「みらいへ」という神戸で活動している帆船が関東に来るのは知ってましたが、果たして貸切が可能なのか、お金はいくらくらいかかるのか、正直なんの情報も持っていませんでした。

その後の妄想。
値段は非常に大ざっぱに30万〜50万と妄想。
50万までなら自分でリスクをとってもいいかなと妄想。
航海する場合定員は30人ほどなので、一人一万円以上は取れないから差額は自己負担と妄想。
この時点では何もかも妄想で、何の目的で貸し切り航海したいのかも謎でした。

さて妄想をFBにアップした一週間後、「みらいへ」のクルーの友人から6月後半に神戸発着の1泊2日クルーズにモニター価格でお安く乗船できるよ♡という案内をもらいました。
たまたま関西に行く用事もあったのでその航海に参加しました。

その航海中、夜中に淡路島沖に錨を下ろしたの船の操舵室で、航海に誘ってくれた友人のクルーに「8月に貸切できそうな日はある?」とうっかり聞いてしまいました。
彼女は船のスケジュールをチェックしてくれましたが、その時点でははっきりしませんでした。
ただ横浜はかなり船のスケジュールが混んでいるので、普通に航海するのは難しそうではありました。

そこで代案として提案してもらったのが、通常の航海の終わった夕方以降、停泊したままの船内でのイベント開催でした。
これだと実現の可能性が高くなるのと、料金的にもかなり安くでいけるのではないかという読みでした。

確かに実際に航海に出たいのはやまやまですが、よく考えると経済的なリスクも高いし、丸一日ということになると、人を集めるのは難しいのも確かです。
しかも船好き、帆船好きではなく、今までそういうものに接点のない人を集めたいと妄想していたので、接岸したままの方がそういう人たちにはハードルが低くなります。

ということで密談の末、一日、もしくは半日の航海での貸切を第一案として、スケジュール的に無理な場合は停泊したままで貸切イベント開催という線で事務の人に話を上げてもらうことに決まりました。

もう後戻りはできなくなりました。
妄想に人を巻き込んでしまったのです。
これスケジュール空いてて、貸切できちゃって、でもイベントやっても誰も来なくて、自腹で何十万か払って一人で貸切航海になったらどうしよう。
いや、ネタ的にはそれもおいしいかも。
とか、航海が終わり下船した後も、妄想は膨らむばかりでした。

フリーランスの働き方

知人のブログでフリーランスの働き方について書いているものがあり、一応フリーランスの端くれてしてメシ食ってる身なんですが、こういう発想もあるんだと興味深く読ませていただきました。

 

 

フリーランスでやっていくコツは「法人顧客」と「収益パターン」に尽きる | 不明研究室


フリーランスといってもピンキリですし、そもそもどうしてフリーランスという働き方を選択したのかも人それぞれなのではと思います。

組織に縛られず自由にやりたいとか、会社にマージンを持っていかれるのがばからしいとか、組織で動くのが苦手とか。

 

ではぼくはというと「あんまりたくさん仕事すると疲れるからやだ〜」というダラダラ派のフリーランスではないかと思っています。
フリーになった最初は、今とは違ってバリバリ派のフリーランスとしてフルパワーで働いていたのですが、数年で電池が切れて仕事への興味すらなくしかけてしまったので、今では楽しく仕事ができるレベルしか仕事しないようにしてます。

 

「楽しく」の中には量だけではなく質や仕事の進め方の問題もあります。
ぼくの場合はフリーになった直後は、このブログでも触れられているような「安定して発注のある法人顧客」もいくつか持っていました。
ホール管理とかその手のやつです。

 

ただそういうのはしがらみとかいろいろあって付き合いがめんどくさい上に仕事の内容そのものが面白くないというのもあり「お金を稼ぐために時間や労力を切り売りしてる感」が強かったんですよね。

 

ということでめんどくさいクライアントとのやりとりが必要な仕事は徐々に縮小し、雇われエンジニア、オペレーターとしての仕事と自分で無理せずにコントロールできて内容的にも面白いと感じられる中、小規模のお芝居を中心としたデザイナー仕事に業務内容をしぼっていく感じでした。

 

最近では雇われの仕事も実は会社発注のものは少なくなっていて、フリーの人から受けるものが半分以上になっています。

会社も大手よりも中小規模のところとの付き合いが多いのですが、そういうスタンスの方が気分的には楽な部分が大きいですね。

 

そしてなぜか最近では一時期少なくなっていたデザインの仕事も増えてきてるんですよね。
デザイン仕事少なくなって、倉庫代とかもバカにならないので機材とか全部手離したんですがね。
なかなか思い通りにはならないもんですなあ。

最近のお仕事

4/3〜7まで照明デザイナー、本番オペレーターとして関わりました、角角ストロガのフ「エイプリル」@吉祥寺シアター無事に幕を降ろしました。

・・・無事に?

お芝居を見るといつも思っているのですが、今回は心の底から「役者ってすごいなあ」と。
まあそれはね、お客さんにはあまり関係のないポイントについてなのかもしれませんが。
今回は珍しく稽古場に長くつけたのですが、あのカオスな稽古場から(あの短い間に)ここまでのクオリティーの作品を造り上げる勢いと集中力。
結構感動ものでした。

いろいろ決まりきらないまま劇場に入り、時間の限られる中で作品に対してどういうアプロチーがいいのか考えていました。
自分のやったことが正解だったのかはいまでも分かりません。
作った明かりについても正直満足はしていません。

ただ主演のいしだ壱成さんには「ステージを重ねるごとにだんだん自分の感覚と照明の変化が重なりあってきて、鳥肌が立つくらい気持ちのいい瞬間も何度かありました」みたたいなことを言っていただきました。
様々な事情から今回は、絵面としての照明の造形的な部分を多少捨てても、舞台上で演じている役者の呼吸や感情や肉体、いわゆるライブ感を重視して明かりをつくっていたので、そこを役者さんにも感じていただけたのであればこれほどうれしいことはありません。

その分、流れを外してしまったと感じる瞬間も普段と比べると多かったですし、オペレーターとしては非常に集中力のいる負担の大きい作品ではありました。
家に帰ると毎晩眠くて仕方なかったです。
初日開けると普通はかなり楽になのですが、今回は千穐楽まで精神的な疲れは半端なかったですね。

演出家の角田ルミさんもとても興味深い人でした。
演出家という生き物は、基本的に変わった人が多いのですが、ぼくがこれまで出会った中でもかなりハイレベルに面白い人でした。

最初の顔合わせの時に「わたし周りの人をすごくイラッとさせるみたいなんですよね〜」とにこやかに語っていた言葉の意味は充分体感しました。
「これまでの照明さんってみんな、場当たりやってると半ギレするんですよね〜」(ぼくはその点冷静に対応してくれましたという褒め言葉なんですが)というお言葉にも「そうですね。半ギレになったみなさんの気持ちはよく分かります」とお返事させていただきました。

そんなもろもろ含めて、もし次回もご縁があれば、試してみたいことやってみたいこともいくつか心に浮かんだりしますし、とても刺激的な公演であったことは間違いありません。
偶然とはいえ関われて本当によかったです。
これからも彼女を観察する機会があるとうれしいですし、一緒に作品作れたらなあとは(いまのところは)思っています。

スーパーの鮮魚コーナーでメディア芸術について考えたこと

六本木に行ったついでに、新国立博物館に寄って文化庁主催のメディア芸術祭の受賞作品展をのぞいてきました。

 

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新国立美術館ってイメージとかなり違う場所でした。
自由度は高いけどその分、空間や場のもつエネルギーは感じない気がします。
門をくぐって中を回って外に出るまで、びっくりするほどワクワクさせられる感覚がなかったですね。

美術館というより展示場みたいな印象でした。
フラットで主張を感じないところとか。
まあその分展示物を見てくれってことなんでしょうが。

お目当てはエンターテイメント部門で大賞をとったingressというゲームの展示でした。
プレイヤーが地図上にあるポータルと呼ばれるポイントを2つの陣営に分かれて取り合う、世界規模の陣取りゲームです。
実際にそのポイントのある場所まで移動しないとアクションができないところが、ネットとリアルの融合っぽくて面白いです。

で今回は展示会場そのものがゲーム世界のポータルにもなっていたのですが・・・・室内のためにぼくの端末では位置を認識してくれずゲットできませんでした (T-T)

しかし展示の周りではスマホタブレットの画面を見ながらプレイに励むエージェント(ingressではプレイヤーをそう呼びます)が数名。
美術館の中で展示物を見ずにスマホをいじっているのもなかなか面白い光景でした。
エージェントからしてみれば展示物よりもゲーム内のポータルのほうが興味深いのもたしかなんですけどね。

場内にはその他にも「メディア芸術」と文化庁からお墨付きをいただいた作品がたくさん展示されています。
アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門があるのですが、個人的に興味のあるアートとエンターテイメントを中心に見させていただきました。

いくつか面白い作品や印象的な展示もありましたが、総じてなるほどねー、という感じでした。
新しい技術や思考をいち早く取り入れている面白さは確かにありますが、作品としてのインパクトや新しさがあるかどうかと言われると微妙なものが多かった気がします。

そもそも「メディア芸術」っなんやねんというところもありますが、この手の新しさに主眼をおいたアート作品の印象って、ぼくはずっと昔から「なるほどねー」で変わらないです。
感心はするけど感動はしません。

 

 

帰り道にスーパーによって夕食の買い物をしました。

鮮魚コーナーにいくと「初カツオのたたき」と「とろカツオの刺身(解凍)」が並んで置いてありました。
というか初カツオ早すぎじゃない!?

カツオ(に限らず魚全体として)は保存技術や漁労技術、流通システムの進歩で以前よりも遠くで漁をすることが可能になったと聞きます。
初カツオが食卓に上るのもどんどん早い時期になってきました。

どっちを買おうかしばし悩みました。
値段的にはとろカツオの方がかなり安いです。
そして手に取ったのは冷凍物のとろカツオの方でした。

食べてみて大満足。脂ものってるし味もしっかりしてました。
初カツオは新鮮かもしれないけど多分そこまでまだおいしくないのではと考えたチョイスが正解だったようです。

でおいしいカツオを食べながら、今日の作品展で感じたことって、スーパーで見た2種類のカツオの違いみたいなものなのかなと思いました。

日本料理には「走り」という言葉があるそうです。
本格的なシーズンより少し前に、市場に出回り始めたばかりの食材のことです。
数が少なく値段も高いのですが、季節を先取りして食べるのが粋だとされています。

でもおいしさでいうと少しタイミングが遅くなっても圧倒的に「旬」の食材のほうがいいのもまた事実です。
豊富に出回ってるので当然値段も安くなってます。

そのどちらを尊ぶかというとその辺りはそれぞれの人の価値観なんだろうなとは思います。
ぼくはどちらかというと安くておいしい旬の食材派ですが、走りを楽しむ感覚というのも充分に理解できます。

創作という行為において常に前のめりに走り続けるという姿勢そのものは素晴らしいことだとは思います。
ただ生み出されるものが常にその姿勢と同じくらい素晴らしいかというと必ずしもそうではないでしょう。

そしてパックグラウンドやコンテクストと作品の与える印象と一致しないことは、アートやエンターテイメント全般においてよくあることでもあります。

創作で大事なことはただ作品それだけです。
新しい技術や手法を取り入れることがよいわけではありません。枯れた技術でも古い思想や手法でもなんでもいいのです。
ただ作品そのものが面白ければ。
ぼくはそんなふうに思っています。


第18回文化庁メディア芸術祭

 

音でプレイするスポーツ

先日、日本ブラインドサッカー協会が主催する「OFF TIME」というイベントに参加しました。

ブラインドサッカーとは視覚障害を持つ人がプレイする5人制のサッカーです。
パラリンピックの正式種目でもあり、世界選手権などワールドレベルの大会も盛んに開かれています。

「OFF TIME」ブラインドサッカーの要素を一般の人が気軽に体験できるプログラムです。
ブラインドサッカー協会のサイトによると、目隠しをして様々なアクティビティを行うことで、新たな発見があると書かれています。

ぼくは15年ほどセイルトレーニングという帆船航海の体験学習プログラムに関わってきましたが、自分がいいと思っているセイルトレーニングがなかなか広がっていかないことを残念に思っていました。
そんなこともあって最近、話題になることが多く、企業等との連携も進んでいるこのプログラムがどういうものか体験したくて参加してみました。

 

日曜の午後、会場の体育館に向かいます。
今回は日曜日ですが社会人でも参加しやすい平日の夜にも開催しているそうです。
受付をすませると早速目隠しを手渡されます。
ドキドキ・・。

集まった参加者は7,8人。年齢層はやはり20代がほとんど。
中には大阪から来ている人もいました。
社会福祉やフットサルに興味がある人が多いみたいです。
40過ぎのおっさんはやや浮き気味です・・。

協会側のインターンの学生さん、それとブラインドサッカー日本代表候補選手が参加者に混じって10人でスタート。

まずはアップを兼ねて二人一組で軽く準備運動。
この時点でもう目隠しを使ったプログラムが始まります。

その後10人全員でいくつかのワークをしたあと、5人ずつのチームを作り、そこから目隠ししてブラインドサッカー用のボールを使ったゲームをやっていきます。

細かい内容はネタバレになるのでここには書きません。
興味のあるかたは協会のサイト、もしくはぼくが嫌いなイケダハヤトさんのブログにも体験記が書かれているのでそちらをごらんください。

参加してみての感想ですが、目隠ししてボールを扱うのは予想通りとても難しいものでした。

ブラインドサッカーの使用球は中に鈴が入った特殊なもので、転がる時に音が出るようになってます。
でその鈴の音を頼りにボールを探すのですが、こちらも目隠しして頭の中がごちゃごちゃになっているので、小さな鈴の音を聞き分けることはほとんどできません。

またボールを足元に止めることや止まっているボールを蹴るだけでも、みえないとそうとう難しいです。
一緒に参加して下さった日本代表候補選手の寺西さんなどは何でもないように転がっているボールを追いかけて、足元に止めて蹴りだしていますが、実際にやってみると見てるようにスムーズにはとてもではないけどできません。

 

正直、プログラムのいくつかは似たようなものを他のコミュニケーションやチームビルディング系のワークショップでも体験していたり、自分たちの帆船でやったことがあるようなものではありました。
個々のプログラムは特に目新しいものではありませんでしたが、目が見えないというシチュエーションに特化して構成してあるので、全体を通しての印象はとても強いものになっていたと思います。

このプログラムは初心者向けで時間も短いので、サッカーの試合形式のワークはありませんが、ワークを通して実際の選手のみなさんがプレイを想像させる部分もあり、そうしたところも魅力の一つかなとも思いました。

 

終わった後に今回インストラクターを努めてくださった協会の方と少しお話をしましたが、ブラインドサッカーは音が重要なスポーツだそうです。

試合中にボールが止まると選手がボールのありかがわからなくなるので審判がボールを動かして音をさせることもあるそうです。
また寺西選手によると頭を低くして両方の耳から聞こえる音の差でボールの位置を判断しているとのこと。

実際にぼくも体験しましたが、ボールから聞こえてくる鈴の音は本当に小さなもので、敵味方が入り乱れる中でその音を頼りにプレイするのはすごく勇気がいることだと思いました。

実際に試合中に接触事故で流血というのもめずらしくないそうです。
目隠しして動くと周りの状況が分からないのでどうしても動くことに躊躇してしまう自分がいました。
試合のビデオも拝見しましたが、激しいプレイをする選手のみなさんを素直に尊敬してしまいました。

今は日本でもたくさんのチームが活動していて、地域リーグや日本選手権なども開かれているそうです。
ぼくも試合は当日ビデオでみせていただいただけですが、自分がやってみるとより興味を引かれたので、機会があれば一度生観戦してみたいと思っています。

 

料金は4000円、時間は2時間強。
会場は高田馬場から徒歩15分くらいの体育館です。
それほどハードに動くものでもないですし、ジーンズとかそのレベルの服装で充分に参加できます。

値段と時間に見合った価値のある貴重な体験であることは確実ですので、興味を引かれた方はぜひ参加してみてください。

 


日本ブラインドサッカー協会|Blind soccer


OFF TIME|ブラインドサッカーから学ぶコミュニケーション

 

日常と非日常の境を走る寝台列車

寝台列車が好きだ。

これまでに東京から出雲、長崎、富山まで寝台列車で旅をしたことがある。

長崎や富山への寝台列車はいまはもう走っていない。
東京と札幌を結ぶ、寝台特急北斗星にも何度か乗ったことがある。

その北斗星が今年の三月で定期ダイヤからなくなるというので久々に乗ってみた。
同じように考える人が多いのか、平日なのに車内は満員。

自由業の特権で平日や閑散期の乗ることとが多かったので初めて混んだ北斗星に乗ってみて改めて感じたことがいくつかあった。

パブタイムと呼ばれる、予約なしで入れる夜の時間帯の食堂車もいつもはガラガラなのに満員で入れなかった。
サロンカーと呼ばれるだれでもいられるスペースもいつも満員。
併設のコインシャワーも定員オーバーで売り切れ。
狭い廊下にある壁から引き出すタイプの小さい腰掛けにも大勢の人がおしりを乗っけて、なんとかして車窓からの風景を楽しもうとしていた。

つまりは全体の定員に対してパブリックな場所が少ないのが問題。

個室の人は自分の部屋からでも旅情が楽しめるけれど、そうでない人にとって狭い自分の寝台しか居場所がない。
そうなるとただ窮屈な思いをして一晩を過ごすだけのこと。

寝台特急にロマンやあこがれを感じる人は大勢いる。
しかし実際に乗るにはハードルが高い。
時間や値段から考えれば、寝台列車よりもメリットがある交通手段はいくらでもある。

そんな現状で、がんばって寝台列車に乗った人が果たして事前に持っていた期待を満たされるのか、また乗ってみようと思うのか、そこにはかなり疑問が残る。

とはいえ、限られた空間と時間の中でこれ以上のサービスを提供するのも難しいのかなとは思う。
いままでは空いた時にしか乗ったことがなかったのでサービスに対しての不満はあまり感じなかったのだけど、やはり寝台列車というのは消えいく運命にある乗り物なのかもしれない。

北斗星がなくなる理由としてよく聞くのは車体の老朽化。
一部車両はつくられてから80年近く経つとも聞く。
また新幹線の北海道延伸にともない需要がなくなるという話や、青函トンネルの整備の時間を確保するためというような話も聞く。

またあまり語られないのだけど、朝夕の通勤混雑時に都市圏を長距離列車が通るのは、ダイヤ編正の上で結構めんどくさい話らしい。
そう言われると特に寝台車で東京に向かっている時なんかは、車窓から通勤客があふれる見慣れた日常の駅のホームの風景が現れて、すごく興ざめしたこともなんどかあった。
みんなは真面目に働いているのに自分だけがのほほんとした旅行気分なのが恥ずかしい気分にもなったりした。

思えば今でこそ「あこがれ」や「ロマン」といった非日常の形容詞付きで語られる寝台特急ももともとは日常の世界のものだった。

出張や帰省、就職のために上京。
交通手段がまだ乏しかった時代、寝台列車は長距離を移動するための合理的な手段として導入された。
当時はいまよりも一編成辺りの定員も多かった。当然乗客の快適さや旅情を感じさせる演出などはそこでは二の次の価値観だった。

それが自動車の普及や高速道路の整備、飛行機の料金が下がったことなど、徐々に合理性=日常性を失った。
そしてむしろ旅行者やマニアから一度は乗ってみたいという非日常性を付与されて生き延びてきたのだと思う。

でも様々なエンターテイメントと競合するこの時代に生き残っていくには、寝台特急の実際の設備やコンテンツはあまりにも貧弱だったし、ロマンや旅情だけでは人を集める力にはならなかった。

日常の世界で戦いに負けて、非日常のシンボル的に受け止められて生き伸び、それがまた日常のロジックに負けて退場する。
これまでにもそんな事例はたくさんあったのだろうし、それが世の中の普通なんだろう。

でも、それだけだとつまらない。
このつまらない世界に少しでも面白いものを、夢を、ロマンを、非日常のワクワクするモノたちをみつけていく。
日常に対抗するだけの強さや価値を持って。
たとえムダな努力だとしても、ぼくはそんな風に暮らしていく。
これまでも。そしてこれからもずっと。

 

物語のプレゼント

三年前に「自分の本をつくる」という講座を受けました。
自由大学という社会人向けに少し変わった視点の学びの場を提供している団体が企画するものでした。
本を出したいと思う人たち向けに、自分の内面と対話して自分が伝えたいものはなんなのか、そんなことを探る時間でした。

三年前というのはぼく自身の迷走期でした。
それまでの仕事を休業して次の何かを模索して半年あまりが過ぎ、まだ答えが見つからず悩んでいました。

文章を書くというのは昔からずっと好きなことでしたが、本格的にそれに取り組むことはずっとしてきませんでした。
半年かけて自分の中のものを棚卸しして、見つけたものを取捨選択し、そして思い出した自分がやりたいことのひとつ「本を書く」をもう一度見つめ直してみよう、そういう思いから受講しました。

「自分の本をつくる」は人気のある講座でぼくが受けたのは14期。その後も定期的に講座は開催されていました。
5日間の講義の中で自分のやりたいことをブラッシュアップして、その最終日に自分の作りたい本の企画書を参加者相互でプレゼンします。
先日、その最終プレゼンをオブザーバーとして聴講させていただきました。

9人の方の出版企画のプレゼンはそれぞれの方の個性と情熱に満ちたものでした。
ぼく自身は若い頃からずっと舞台業界で技術者として仕事をし続けてきたせいであまり外の世界のことを知らないので、世の中には様々なバックボーンを持った人たちがいて、いろいろなことに情熱を傾けているのだと感心させられる時間でした。

その中である女性の発した言葉が印象に残りました。
「わたしはこの本を出せないままだと、死にきれないと思っています」

彼女の夢は自分の作品を出版することではなく、若い頃にニューヨークで出会った一冊の本の翻訳したいということでした。

25年くらい前にアメリカで出版された一冊の本。
流行のファッションを追い求めるのではなく、その人に合ったものを身につけることでスタイルが生まれるというようなテーマの本だそうです。

正直その内容については、自分があまり興味のある分野でもないのでそこまで引かれたわけではありませんでした。
ただ当時の彼女がその本に出会いどれだけ衝撃を受けたか、そして自分が味わった感動を伝えたいという情熱がどれだけ深いのか、それは理解できた気がしました。

それは自分自身にもそういうことがあったからです。

講座を聴講するにあたり、最初に講師の方から現受講生の方に簡単に紹介していただいたのですが、そこで「この人は文学賞を受賞したことがあります」みたいなことを言っていただきました。

自分の本を出したいと思う人たちなのでその辺りには非常に食いつきがよく、講義後の懇親会で賞を取ったことに関することをいろいろ聞かれました。
その中で「普段は違う仕事をしながら文章を書くのは大変じゃなかったですか」と質問されたのです。

そしてそれに対してぼくの答えは
「ぼくにしか書けないと思っていたので、書くことが義務だと思っていました」
というものでした。

ぼくが頂いたのは「海洋文学大賞」というものでもう15年ほど前のことになります。
出版社などが作家の発掘のために行っていたのではなく、海事関係の業界団体が海洋文化の普及などを目的に開催していたもので、はっきりいってレベルはそれほど高いものではありませんでした。

その頃ぼくは本業のかたわら帆船でボランティアクルーをしていて、1年のうちの1〜2ヶ月を船の上で暮らしていました。
そのご縁からある年の夏に大西洋を横断する帆船レースにクルーとして乗船する機会があり、その航海期で賞をいただきました。

それまでも何度も帆船での航海は経験していました。
でもカナダからオランダまで大西洋を越えるその航海はぼくにとってとても大切なものでした。
何人もの仲間と一緒に初めての海を越える。
いくつものドラマが生まれました。
そして自分の中にも様々な感情が生まれました。

記憶は風化していきます。
航海したという事実はずっと残ります。
しかしその時にぼくや航海を共にした仲間達が感じたことはあっというまに消え去ってしまいます。

ぼくにはそれがどうしてもガマンできなかったのです。

航海日誌に残された航海距離や針路の記録ではなく、
美しく切り取られた一瞬の写真ではなく、

明るい夏の光に照らされたデッキや深夜の当直の闇の中で、
乾いた風に吹かれたり波頭に踊る陽の光のキラキラを眺めたり、

そんな時間の中で生まれたぼくたちみんなで造り上げたその年の夏が、失われてしまうことが許せなかったのです。

だからこそぼくは書き残そうと思ったのです。
自分にとって、そして一緒に航海したみんなにとっても大切なその夏の記憶を。
ぼくは忘れてしまいたくなかったし、航海の仲間にも忘れて欲しくなかった。

だからぼくはみんなにプレゼントしたかったのです。
ぼくたちの航海の物語を。
そしてそれが形にできるのはぼくだけしかいない、そう思い込んでいたのでした。

能力があるとか経験があるとかそういうことではなく、思いの強さそれだけでも人は普段よりずっと強い力を出すことができる。
ぼくは今でもそう思っています。