脚立の上の王様

主に脚立の上に存在します。舞台照明家のはしくれとしてエンタメ業界の底辺の端っこをちょっとだけ支えています。ふらっと海に出たり旅立ったりします。

物語のプレゼント

三年前に「自分の本をつくる」という講座を受けました。
自由大学という社会人向けに少し変わった視点の学びの場を提供している団体が企画するものでした。
本を出したいと思う人たち向けに、自分の内面と対話して自分が伝えたいものはなんなのか、そんなことを探る時間でした。

三年前というのはぼく自身の迷走期でした。
それまでの仕事を休業して次の何かを模索して半年あまりが過ぎ、まだ答えが見つからず悩んでいました。

文章を書くというのは昔からずっと好きなことでしたが、本格的にそれに取り組むことはずっとしてきませんでした。
半年かけて自分の中のものを棚卸しして、見つけたものを取捨選択し、そして思い出した自分がやりたいことのひとつ「本を書く」をもう一度見つめ直してみよう、そういう思いから受講しました。

「自分の本をつくる」は人気のある講座でぼくが受けたのは14期。その後も定期的に講座は開催されていました。
5日間の講義の中で自分のやりたいことをブラッシュアップして、その最終日に自分の作りたい本の企画書を参加者相互でプレゼンします。
先日、その最終プレゼンをオブザーバーとして聴講させていただきました。

9人の方の出版企画のプレゼンはそれぞれの方の個性と情熱に満ちたものでした。
ぼく自身は若い頃からずっと舞台業界で技術者として仕事をし続けてきたせいであまり外の世界のことを知らないので、世の中には様々なバックボーンを持った人たちがいて、いろいろなことに情熱を傾けているのだと感心させられる時間でした。

その中である女性の発した言葉が印象に残りました。
「わたしはこの本を出せないままだと、死にきれないと思っています」

彼女の夢は自分の作品を出版することではなく、若い頃にニューヨークで出会った一冊の本の翻訳したいということでした。

25年くらい前にアメリカで出版された一冊の本。
流行のファッションを追い求めるのではなく、その人に合ったものを身につけることでスタイルが生まれるというようなテーマの本だそうです。

正直その内容については、自分があまり興味のある分野でもないのでそこまで引かれたわけではありませんでした。
ただ当時の彼女がその本に出会いどれだけ衝撃を受けたか、そして自分が味わった感動を伝えたいという情熱がどれだけ深いのか、それは理解できた気がしました。

それは自分自身にもそういうことがあったからです。

講座を聴講するにあたり、最初に講師の方から現受講生の方に簡単に紹介していただいたのですが、そこで「この人は文学賞を受賞したことがあります」みたいなことを言っていただきました。

自分の本を出したいと思う人たちなのでその辺りには非常に食いつきがよく、講義後の懇親会で賞を取ったことに関することをいろいろ聞かれました。
その中で「普段は違う仕事をしながら文章を書くのは大変じゃなかったですか」と質問されたのです。

そしてそれに対してぼくの答えは
「ぼくにしか書けないと思っていたので、書くことが義務だと思っていました」
というものでした。

ぼくが頂いたのは「海洋文学大賞」というものでもう15年ほど前のことになります。
出版社などが作家の発掘のために行っていたのではなく、海事関係の業界団体が海洋文化の普及などを目的に開催していたもので、はっきりいってレベルはそれほど高いものではありませんでした。

その頃ぼくは本業のかたわら帆船でボランティアクルーをしていて、1年のうちの1〜2ヶ月を船の上で暮らしていました。
そのご縁からある年の夏に大西洋を横断する帆船レースにクルーとして乗船する機会があり、その航海期で賞をいただきました。

それまでも何度も帆船での航海は経験していました。
でもカナダからオランダまで大西洋を越えるその航海はぼくにとってとても大切なものでした。
何人もの仲間と一緒に初めての海を越える。
いくつものドラマが生まれました。
そして自分の中にも様々な感情が生まれました。

記憶は風化していきます。
航海したという事実はずっと残ります。
しかしその時にぼくや航海を共にした仲間達が感じたことはあっというまに消え去ってしまいます。

ぼくにはそれがどうしてもガマンできなかったのです。

航海日誌に残された航海距離や針路の記録ではなく、
美しく切り取られた一瞬の写真ではなく、

明るい夏の光に照らされたデッキや深夜の当直の闇の中で、
乾いた風に吹かれたり波頭に踊る陽の光のキラキラを眺めたり、

そんな時間の中で生まれたぼくたちみんなで造り上げたその年の夏が、失われてしまうことが許せなかったのです。

だからこそぼくは書き残そうと思ったのです。
自分にとって、そして一緒に航海したみんなにとっても大切なその夏の記憶を。
ぼくは忘れてしまいたくなかったし、航海の仲間にも忘れて欲しくなかった。

だからぼくはみんなにプレゼントしたかったのです。
ぼくたちの航海の物語を。
そしてそれが形にできるのはぼくだけしかいない、そう思い込んでいたのでした。

能力があるとか経験があるとかそういうことではなく、思いの強さそれだけでも人は普段よりずっと強い力を出すことができる。
ぼくは今でもそう思っています。