脚立の上の王様

主に脚立の上に存在します。舞台照明家のはしくれとしてエンタメ業界の底辺の端っこをちょっとだけ支えています。ふらっと海に出たり旅立ったりします。

小室哲哉のことを考えていたらなぜだか泣きたくなった

きっかけになった報道には興味がなく、それほど彼の音楽が好きだったわけでもなく。
けれど引退と聞くと色々と彼の曲にまつわる思い出がよみがえってきた。
それくらい時代と共に駆けていた人だっのだなと。

一番古い思い出は、高校の頃に付き合っていた彼女が「Get Wild」が大好きだったこと。
そこから始まって20代の頃、彼の音楽は常にぼくの周りに鳴り響いていた。

報道があってから、小室さんが関わっていた曲をいくつかYou Tubeで聴いてみた。
その中に華原朋美さんに「I'm proud」のMVがあった。

youtu.be

この曲も御多分に洩れず、当時それほど聴き込んでいたわけではない。
ただ、ヒットした曲なのと彼女の伸びのある高音のボイスは耳に残ってはいた。
サビのメロディーぐらいはぼんやりと覚えていた。

そして何度か繰り返して聴くうちに涙が止まらなくなってきた。
なんでだろう。

改めて聞いて、いい曲だなとは感じた。
特に歌詞は、今聞くとかなり印象深く感じられた。

華原さんのwikiには、デビュー前後の二人の関係について小室さんが語った言葉として、
「アーティストに手をつけたのではなく、プライベートの恋人に曲を書いてデビューさせただけです」と書かれている。
元々は遠峯ありさというそれほど有名ではないアイドルでしかなかった彼女は、二十歳の頃に小室さんと出会ったことでミリオンセラー歌手へと変わった。

「壊れそうで崩れそうな情熱を繋ぎ止めるなにかいつも探し続けてい」て、
「街中にいる場所なんてどこにもない」と感じていた少女が
「あなたに会えた」から「自分を誇れるようになった」

「I'm proud」の歌詞は彼女の人生そのものだった。
こんな歌詞を臆面もなく自分の彼女に歌わせる小室さんもどうかと思わなくもないけど、それでもこの歌詞は聴くひとの心を打つ。

誰からも省みられないなけなしのプライドを抱きしめて泣いたこと。
出会った誰かから特別な暖かさをもらったこと。
誰にだってそういう体験はあるだろうから。

 

        ■

 

小室さんが活躍したのは1980年代後半から90年代の後半。
ちょうどぼくが大学に入りそして大学を辞めてフリーランスの舞台照明家として働いていた時期だ。

たまたま最近「アパートメント」というwebマガジンでその頃の思いでを書いていた。
世の中がまだバブルの余韻に浮かれ騒いでいた時代に、ぼくは裏方として汗と埃にまみれて暮らしていた。
フリーランスではあったものの、まだまだ自分に自信が持てなくて、いつも不安な気持ちを抱えて働いていた。

1995年の夏。お台場にあったベイサイドスクエアという野外スペースで「TK DANCE CAMP」という小室ファミリーのライブイベントがあった。
小室さん本人の他に、trf、hitomi、安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S、観月ありさ、globe、篠原涼子坂本龍一H Jungle with tなど、綺羅星のようなアーティストたちが参加した大イベントだった。

この催しにぼくは多分、照明スタッフとして参加していた。
(多分、と書いたのはネットで調べたイベント内容とぼくの記憶に若干違いがあるから。今となってはもう調べても分からない・・)

そもそも照明スタッフはイベントの裏方なのだけど、このイベントではぼくは裏方の裏方みたいなポジションで働いていた。

初日の朝一で元請け照明会社の仲がいい若手社員に捕まり、
「田中さんは今日はライトに触らなくていいんで、ぼくと一緒に死ぬほどケーブルを引き回しましょう♡」と耳元で囁かれて、集合した30人ほどの照明スタッフとは別の場所へ。

当たり前なのだけど、野外イベントは何もない空間から設営が始まる。
照明もただ機材を設営するだけではなく、配線関係でやらなくてはならないこともとても多い。
しかもホールでの作業と違って引回す距離が圧倒的に長い。
重いケーブルを扱う力も必要だし、細かい作業を間違いなく行う正確さもいる。
そしてトラブルが起こった時に、どこの何が問題なのかを見極める対応力も必要。
その日のぼくはひたすらに各種ケーブルを引き回すチームに配属された。

30人くらいプロの照明さんがいて、500台くらいのスポットを設営したけれど、ぼくは1台も触らなかった。
各スポットに電源を供給する重たいケーブルを引き回す。
それが終わると調光ユニットの設置。
そして操作用のデジタル信号ケーブルの配線。

当時はデジタル制御の機材がで始めた頃。
大規模なイベントだったのでカラーチェンジャーやムービングスポットといった最先端の機材も多く使われていた。
今では珍しくはないのだけど、当時はまだデジタル機材を扱うことが珍しかったので、プロの照明さんでも不慣れな人が多かった。
そういう人が適当に設営すると後でトラブルになることがほとんどだったので、そういう機材のケアもその日はぼくらのチームがやっていた。

炎天下に100mほども遠くにある、陽炎に揺らめく照明用のタワーまで、ひとり延々とケーブルを引きつづけたりもした。
ステージの床下に何十本ものケーブルを縦横に張り巡らせてもいた。
夕方になってリハーサルが始まっても、トラブル対応で舞台裏を走り回っていた。

ようやく作業が一段落したので休憩しようと客席に出てみた。
夜の闇の中にステージが明るく浮かび上がっていた。
ダンス、音楽、歌。
汗と埃にまみれて作ったステージは、そんな裏で働く人のことなど知らぬげに眩しく輝いていた。
ぼくはしばし時間を忘れて、華やかなリハーサル風景に見入っていた。

ぼくの20代はいつもそんな風だった。
東京ドームや武道館、横浜アリーナ
華やかな舞台を作りながら、自分自身は華やかさからは最も遠いところにいる、そんな気がしていた。

世の中の人が思うような青春はそこにはなかったと思う。
仕事以外でディスコやクラブに繰り出すことはなかった。
異性と派手に遊び歩いた覚えもない。
世の中はまだバブルの名残りに浮かれ騒いでいた。
ぼくはそのすぐ近くにいて、なのにとても遠くにいた。

ぼくと小室さんとの接点は舞台照明家という仕事を通したものでしかなかった。
彼の音楽にあこがれたこともなかった。
それでも久しぶりにその曲を聴いていると、不思議なくらいに感情が揺さぶられた。

それだけ彼の音楽が時代と寄り添っていたということなのか。
好き嫌いに関わらず自分の人生から完全に切り離すことはできないものなのか。
そして華やかな青春とは縁遠かったぼくにも、不思議とその頃を懐かしむ気持ちは残っていたのか。

ひたむきで、不器用で、プライドばかり高くて、何者でもなくて。
それでもエネルギーにだけは満ち溢れて、その使い道を知らなくて。

彼の音楽を聴いて、50歳を目前にして涙が止まらなくなった。
どうしてだろう。
いまの方がずっと強くて自由なのに。

 

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