脚立の上の王様

主に脚立の上に存在します。舞台照明家のはしくれとしてエンタメ業界の底辺の端っこをちょっとだけ支えています。ふらっと海に出たり旅立ったりします。

日常と非日常の境を走る寝台列車

寝台列車が好きだ。

これまでに東京から出雲、長崎、富山まで寝台列車で旅をしたことがある。

長崎や富山への寝台列車はいまはもう走っていない。
東京と札幌を結ぶ、寝台特急北斗星にも何度か乗ったことがある。

その北斗星が今年の三月で定期ダイヤからなくなるというので久々に乗ってみた。
同じように考える人が多いのか、平日なのに車内は満員。

自由業の特権で平日や閑散期の乗ることとが多かったので初めて混んだ北斗星に乗ってみて改めて感じたことがいくつかあった。

パブタイムと呼ばれる、予約なしで入れる夜の時間帯の食堂車もいつもはガラガラなのに満員で入れなかった。
サロンカーと呼ばれるだれでもいられるスペースもいつも満員。
併設のコインシャワーも定員オーバーで売り切れ。
狭い廊下にある壁から引き出すタイプの小さい腰掛けにも大勢の人がおしりを乗っけて、なんとかして車窓からの風景を楽しもうとしていた。

つまりは全体の定員に対してパブリックな場所が少ないのが問題。

個室の人は自分の部屋からでも旅情が楽しめるけれど、そうでない人にとって狭い自分の寝台しか居場所がない。
そうなるとただ窮屈な思いをして一晩を過ごすだけのこと。

寝台特急にロマンやあこがれを感じる人は大勢いる。
しかし実際に乗るにはハードルが高い。
時間や値段から考えれば、寝台列車よりもメリットがある交通手段はいくらでもある。

そんな現状で、がんばって寝台列車に乗った人が果たして事前に持っていた期待を満たされるのか、また乗ってみようと思うのか、そこにはかなり疑問が残る。

とはいえ、限られた空間と時間の中でこれ以上のサービスを提供するのも難しいのかなとは思う。
いままでは空いた時にしか乗ったことがなかったのでサービスに対しての不満はあまり感じなかったのだけど、やはり寝台列車というのは消えいく運命にある乗り物なのかもしれない。

北斗星がなくなる理由としてよく聞くのは車体の老朽化。
一部車両はつくられてから80年近く経つとも聞く。
また新幹線の北海道延伸にともない需要がなくなるという話や、青函トンネルの整備の時間を確保するためというような話も聞く。

またあまり語られないのだけど、朝夕の通勤混雑時に都市圏を長距離列車が通るのは、ダイヤ編正の上で結構めんどくさい話らしい。
そう言われると特に寝台車で東京に向かっている時なんかは、車窓から通勤客があふれる見慣れた日常の駅のホームの風景が現れて、すごく興ざめしたこともなんどかあった。
みんなは真面目に働いているのに自分だけがのほほんとした旅行気分なのが恥ずかしい気分にもなったりした。

思えば今でこそ「あこがれ」や「ロマン」といった非日常の形容詞付きで語られる寝台特急ももともとは日常の世界のものだった。

出張や帰省、就職のために上京。
交通手段がまだ乏しかった時代、寝台列車は長距離を移動するための合理的な手段として導入された。
当時はいまよりも一編成辺りの定員も多かった。当然乗客の快適さや旅情を感じさせる演出などはそこでは二の次の価値観だった。

それが自動車の普及や高速道路の整備、飛行機の料金が下がったことなど、徐々に合理性=日常性を失った。
そしてむしろ旅行者やマニアから一度は乗ってみたいという非日常性を付与されて生き延びてきたのだと思う。

でも様々なエンターテイメントと競合するこの時代に生き残っていくには、寝台特急の実際の設備やコンテンツはあまりにも貧弱だったし、ロマンや旅情だけでは人を集める力にはならなかった。

日常の世界で戦いに負けて、非日常のシンボル的に受け止められて生き伸び、それがまた日常のロジックに負けて退場する。
これまでにもそんな事例はたくさんあったのだろうし、それが世の中の普通なんだろう。

でも、それだけだとつまらない。
このつまらない世界に少しでも面白いものを、夢を、ロマンを、非日常のワクワクするモノたちをみつけていく。
日常に対抗するだけの強さや価値を持って。
たとえムダな努力だとしても、ぼくはそんな風に暮らしていく。
これまでも。そしてこれからもずっと。