幸運のつかみ方
知人に紹介されてある演出家さんと初めてお仕事ご一緒することになった。
これまで全く接点のなかった方でお互い不安なので一度直接会いましょうということになり、先日顔合わせしてきました。
お相手の方は女性で、ご自分で脚本を書いて演出もする。
劇団ではなくてプロデュース形式で一年に一本くらいのペースでこれまで10回ほどの公演を行っている。
プロデュースシステムだと公演ごとに毎回、自分で出てもらいたい役者さんを呼ぶことができる。
作品にあう人や自分が使いたい人を呼べるというメリットはあるのだけど、裏を返せば毎回それだけの俳優を集めなくてはならないということでもある。
今回もそこそこ日程的には詰まってきているのだけどまだキャストは全員は決まっていない。
メインの何人かはもう決まっているけれど、まだかなりたくさん決まっていない役があるという。
「大丈夫ですか?」と尋ねると「台本書きながらそれに合った人にオファーしてるんです」とのお返事。
プロデュース公演だと脚本家や演出家とは別にプロデューサーがいることが多い。
演劇作品を作るにあたってのクリエイティブな部分と事務的な部分、その両方ができる人はそんなにいないので役割分担するためだ。
キャスティングのための交渉。リハーサルスタジオの確保。スタッフを集めて各セクションとの予算交渉。宣伝のためのツール作り。チケットの処理。
一本の演劇公演を打つためにやらなくてはならない事務的な作業はかなり多岐に渡る。
しかし今回の企画だとそれらのすべてを脚本・演出家でもある彼女が全て行っている。
かなり大変な状況なんだろうということは容易に想像できて、正直頭が下がる。
実は今回の作品にはかなり有名な俳優さんも出演が決まっている。
その俳優さんは過去にも二度、出演していてくれて今回が三度目。
はっきり言って、プロジェクトの規模とかから考えると出てもらっているのが不思議なレベルの方。
主宰の彼女がテレビの脚本とかも書いているらしいのでそのツテなのかと思い、打ち合わせの時にちょっと聞いてみたら意外なお話が聞けた。
彼女は昔からその俳優さんの大ファンだった。
ある時、自分の公演のための脚本を書いていて「この役はどうしてのあの人にやってもらいたい!」と思ったそうだ。
だけどその人とはなんのツテもない。
どうしたか。
いたってシンプルにその方が所属する事務所に連絡して脚本を持ってマネージャーさんに会いに行ったそうだ。
誰かに紹介してもらったワケでもなんでもなく、ただ自分の思いをぶつけてみた。
そうしたら出演OKをもらって、さらに一度だけでなくそれからも出演してくれつづけている。
業界のはしくれで仕事をしているとこの話は小さな奇跡だと思う。
もちろん、先方には先方の事情や理由があり、そこと彼女の持ち込んだ企画かうまくかみ合ったから出演が決まったのだと思う。
とは言え、結果を勝手に決めつけず、自分の思いを実現するために動いた彼女の真っすぐな行動なくては、絶対に起こらない奇跡だった。
自分の思い。それを貫き通す意思。
それを大事にする人しか幸運の女神は微笑まない。
「あんな曲は誰でも作れる」と聞いて思ったこと
ゴーストライターが作曲をしていた事件でいろんな人がコメントしている中で気になったのが、クラシック系の音楽関係の方で「交響曲なんていうのはキチンとしたクラシックの素養があれば誰でも作れる」という主旨の発言をしていた人が何人か見受けられたこと。
それは「ゴーストライターだった方は現代音楽の作曲家として優れた人で、交響曲の作曲などは所詮余技。本人にとっては軽い気持ちでやったことでこんなことでの評価は揺るがない」という感じの文脈で、ゴーストライターだった方を擁護するためのロジックに使われていた。
今回の件についてやゴーストライターを使うことがいいか悪いかとかその辺りの話は置いておくとして何となくひっかかったのは「誰でも作れる」という発言について。
他の分野の創作ではあまり聞かない言葉のような気もするのですがどうでしょうか?
その分野の最先端で尖った活動をしている人が、売れてるものを通俗だと批判することはままある気はします。
しかしそれが「誰でも作れる」という方向性になることは少ない気がするんですよね。
自分が比較的よく知る、舞台芸術の世界でも他人の作品を批判することは多いけど「誰でも作れる」という批判の仕方はあまり聞いたことがない。
小説の世界でも例えばライトノベルなどを「通俗的で大衆迎合しているから、文学的素養があれば誰でも書ける」というロジックで批判しているのはあまり聞いたことがない気がする。
実はこの事件の公になるちょっと前に、即興ミュージシャンの方とお話をしていて似たような話をされたので余計にこの言葉が気になっています。
その方は「売れる音楽なんて簡単に作れる。そんなのじゃなくてもっと誰もやってないようなアートとしての音楽をやってるんだ」というようなことをおっしゃってました。
バックグラウンドやシチュエーションは全く違う中で語られた言葉ですが、その根底には何か共通の感覚があるような気がしました。
ぼくは音楽業界にはほとんど見識はありませんが、これらの発言を聞くと、いわゆる「いい曲」を作るためのメソッドは確立されているという考え方は、音楽業界で仕事をするしている人の中にはある程度共通認識としてあるのではという気がしました。
即興ミュージシャンの方と関わったのは、演劇、ダンス、音楽の即興プレイヤーが集まってのライブにスタッフとして参加したからでした。
その時もそれぞれの分野で「即興」という言葉の捉え方にかなりの違いがあるとは感じていました。
ぼくはどちらかというと演劇よりの人間なので、ミュージシャンの語ることに面白いと感じたり共感する部分もたくさんありましたが、かなりの違和感も拭えませんでした。
ぼくが漠然と感じたのはプレイヤーの立ち位置として、演劇やダンスは自分たちがいま行っていることに意味があると疑わないのに、音楽というジャンルは大抵のことは過去にプレイされていて、それをなぞるだけでは意味がないと思っているということでした。
実際にそれがどうなのか。
音楽というのはそこまで枯れたジャンルなのか。
演劇や身体表現はまだまだ枯れてないのか。
あるいはジャンルの特性がそれぞれそう感じさせるのか。
この辺りはぼくにも分かりませんしすごく繊細な話で人によって感じ方は違ってくるとは思いますが。
まあそんなこんなでゴースト作曲家の方にも興味を持ったので何曲か動画を探して聴いてみました。
ぼくにとって彼の曲は「よくある現代音楽」の曲としてしか受け止められませんでした。
ずいぶん前から、なんども聴いたことがあるような、そんな音楽としてしか聞こえませんでした。
といっても、仕事柄人よりは現代音楽を聴く機会は多いですが、それほど知識や経験があるわけでもないのでぼくの評価に意味があるとも思いませんが。
ただ一点、引っかかったのはぼくが見たものに関しては全て既存の楽器が使われていたことでした。
これまでに築かれてきた音楽理論を越えた新しい表現を目指しているのならなぜ、何百年も前に発案された楽器を今でも使ってるのか、そのことがぼくにはピンときませんでした。
ぼくがお話をした即興ミュージシャンの方によると、即興系やノイズ系のミュージシャンの間では、オリジナルの楽器を作ることがもう普通になってきているとのことでした。
実際に彼はご一緒したライブでは音楽の演奏とVJを同時にやっていたので、それがやりやすいようなシステムを自作していました。
また今はレーザーギターという演奏するとレーザー光がそれに合わせて変化していくという楽器(?)を作っている最中だそうです。
楽器メーカーなどもそういう流れには好意的で、有名なミュージシャンが面白いコンセプトを出してくると、メーカーが開発に協力するケースも多いそうです。
そんな話を聞いていると、元々よく分からない現代音楽というものが、ちょっとは分かってきたような、ますます分からなくなってきたような、あやふやな感じになっていまいますねえ・・。
真の遅筆
竹内結子、三谷幸喜の遅筆ぶりに苦言! | RBB TODAY
という記事を読んだのですが、まあ、こんなものでは遅筆のうちには入らないというかなんというか、よしひとつオレが本当の遅筆というものを教えてやりますよ。
もう鬼籍に入られましたが○上○○しさんという遅筆で有名な作家さんがいらっしゃいます。
遅筆にまつわる様々なエピソードはすでにいろんなところで語られていますが、これはぼくが同業者から聞いたお話です。
あくまで人から聞いた話ですし、ググっても具体的なネタ元は出てこなかったので話半分に聞いて下さい。
ある公演で台本が間に合わず初日が飛んでしまったことがあったそうです。
その後しばらくして無事に台本が上がり、数日遅れて舞台の幕は開きました。
事情に詳しくない人にも想像はつくと思いますが、公演が中止になるというのは制作側としては大事件なわけです。
あちこちに緊急告知をしたりチケットを払い戻したりと、劇場や制作さんなど関係各位はいろいろ大変なわけです。
さて無事に公演は進み一ヶ月ほどの公演期間も終わりに近づいてきたある日、劇場の支配人さんの元に井○さんがご挨拶にみえられたそうです。
「このたびは台本が遅れてしまいまして・・」
支配人さんは当然「ご迷惑をおかけしました」見たいな言葉が続くと思いきや、
「おかげさまで時間がたっぷりとれて、いい芝居が書けました」
と、おっしゃったそうです。
実際にいい作品だったらしいんですけどね・・
もはや一種の芸ですね〜 (*´д`*)〜з
他にも、稽古期間が始まったが台本がないので、役者たちが勝手に誰かが持ってきたシェイクスピアの稽古を初めたら案外いい芝居に仕上がってしまい、せっかくなので二週間後稽古場にスタッフや関係者を集めて発表会をやった、という心温まるエピソードも聞いたことがあります。(これは誰かのエッセイで読んだ気がする)
当代で遅筆といえば○○○ー○・○ン○○ヴィッ○さんですが、さすがにまだ井上さんの「遅れ芸」の域には達してないですなあ・・。
(とばっちりが届く射程距離内で仕事をしているので、個人的には達して欲しくないけど)
ミス・インターナショナル2012優勝者の吉松育美氏の報道について思ったこと あるいは パートナー選択の重要性について
ミス・インターナショナル2012優勝者の吉松育美氏が16日に日本外国特派員協会で記者会見を行って、自らに降り掛かった脅迫被害や大手事務所からの圧力などについて語った内容が記事になって公開され話題になってます。
2013/12/16 ミス・インターナショナル2012優勝の吉松育美氏が脅迫被害の実態を告発 大手芸能プロ役員が協賛企業に圧力か | IWJ Independent Web Journal
その多くは芸能界の体質やら、この問題に対して積極的に報道しないマスコミの姿勢やらを問題視しています。
ぼくもそういう業界特有の体質に問題があることに異論はありませんが、一点だけ疑問に感じているのは吉松さんが受賞直後に所属事務所から独立したということです。
ぼくはこういう吉松さんの行動が今回の問題を呼んだ遠因なのではないかとちょっと思ったのです。
彼女のプロフィール見た限りだとモデルとしての活動歴そのものはそこそこ長いけど、これといって有名な仕事をしていたわけでも継続的に活動する場があったわけでもないようです。
国内外でのミスコン受賞歴は結構あるようですが、コンクールに出ることでタレントとしてのステータスを作るというのは前事務所が得意とするブランド戦略みたいです。
「ミスコン」って独特の世界でそれぞれのコンクールごとに評価基準とかが決まっていて、「歩き方」や「立ち方」をはじめ「笑い方」「写真の取られ方」「メイク」などなど立ち居振る舞い一つとってもそのコンテストが要求する世界観にあわせることが求められます。
そのためにそういう内情に通じた各分野のプロスタッフによるコンクール対策というのが欠かせなくなってきます。
考えれば分かると思うのですが、そういうコンクール対策にはそれなりのコストがかかっていて、所属事務所にとっても決して安くはない投資でもあると思います。
彼女と前の事務所との関係について情報がないのでなんともいえませんが、仮にそういう前提に基づくと、優勝してすぐに独立という彼女の行動にも問題があったのではと思うんですよね。
タレントさんってもちろんそれぞれが個人の魅力で勝負する職業ではあるのですが、その一方で活動を裏からサポートしてくれる人の存在が欠かせません。
というか、どれだけ魅力があってもマネジメントする人がダメであれば仕事としてうまく回って行かないということは、これまでにもいろんな例があるので業界について知らない人でもなんとなく分かるのではないでしょうか。
仮にタレントから見たマネジメントする人の評価を大雑把に4つのタイプに分類してみます。
1 有能で信頼できる人
2 能力はいまいちだけど信頼できる人
3 有能だけどいまいち信頼できない人
4 能力がいまいちで信頼もできない人
1のタイプが一番よくて4がダメだと言うのはすぐに分かるとして2と3のタイプの人のどちらを選んだらいいのかがなかなか悩みどころです。
この辺りは人それぞれの考えやその他の要素もあるので一概には言えませんが、ぼくは自分がパートナーとして選ぶのなら断然 2 のタイプの人です。
有能だけど信頼できない人はいつ自分を裏切るか分からない。
そんな人を自分のパートナーには選べないと思います。
とは言え、実際には自分にあったパートナーやマネージャーや事務所に出会えるかというのは偶然の要素もあってなかなか難しいです。
一見信頼が置けそうだったり有能そうでもいざ仕事をしてみると問題が出てくることも多いですから。
彼女と前の事務所との関係性や契約形態がどういうものなのか分からないのであれですが、事務所を辞めて独立したということはサポートする人がいなくなったということですし、違う言い方をすれば彼女という「利権」は空き家同然になったということです。
そのタイミングで前述の「3」のカテゴリーに属する人が言葉は悪いですが「吉松育美という利権」を手に入れようと動いたのはある意味でとても分かりやすい行動です。
ここで彼女サイドにキチンとした人がついていればもっとうまくその要求をかわす、もしくはうまい落としどころを探るということができたのかもしれませんが、報道で見る限り彼女の代理人的な立場の人は「4」の実力も信頼もいまいちな人なのではないかと思えてしまいます。
今回の騒動を見ていて、業界内部の問題をこんな風にオープンにしてしまうことへの違和感もぼくは感じます。
「ミス・インターナショナル優勝者」という大きな肩書きはあるものの、それ以外の魅力というものが認知されていない彼女がこういう行動をとり、仮に正しさが証明されたとしても、仕事の上で彼女が得るものは少な過ぎると思います。
(もっとも彼女はタレントとしての活動を続けつもりがないという報道もありますが)
この辺りからも彼女の業界内での味方の少なさとか振る舞い方のまずさを象徴してる気もしなくはないです。
それはつまり彼女が軽く見られてるということに他なりませんし、マスコミがスルーするのも単に大手事務所に遠慮してるからだけではないんじゃないかとも思います。